10歳までの楽育〜第4章の8

目線を低くすることで、気づく花がある。

〜「子どもの目線で考える習慣」


春の庭で草抜きをしていた時のことです。中腰で目線が低くなった時、偶然にアネモネの白い花を見つけました。
生け垣や背の高いハーブの陰に隠れて、上からは見えにくかったのです。そこに植えていたことをすっかり忘れていたので、思いがけず見つけて感激しました。
もし、私が子どものように低い目線なら、いつも花を目にできていたかもしれません。

ホテルやテーマパークのスタッフは、子どもの接客をするときに中腰になります。そして、子どもの顔の位置に自分の顔の高さを合わせます。なぜなら、子どもにとって高いところから話しかけてくる大人は、威圧的な存在であるからです。顔の高さが揃うことで、子どもは相手に対して安心感を得ることができます。

娘がハイハイを始めた頃は、私もハイハイをマネて床に手とひざをつきました。部屋に危険な場所がないかを子どもの目線で確かめていたのです。
しかし、子どもが成長すると上から見下ろして話すことに慣れて、次第に子どもの目線を意識しなくなりました。
同時に子どもの気持ちを考えずに失敗することも増えました。何げなく「そんなこともできないの?」と、大人の目線で厳しい言葉を投げ掛けて後悔した経験もあります。

保育園に入ったばかりの頃、娘は園のトイレになかなか慣れることができませんでした。家では大丈夫なのに、どうして保育園のトイレでは嫌なのかを聞いてみると、「汚いから、嫌い」と娘は言いました。そこで私はあまり深く考えずに「ちょっとくらい汚くても、我慢しなさい」と言って話を終えました。
その夜、私が見た夢は忘れられません。そこは、薄暗く狭いのに天井がとてつもなく高い場所でした。地をはうような低い目線の先には、トイレがありました。体が重くて思うように動きません。そして、ゆっくりと向かう先は、言葉にできないほど不潔なイメージでした。夢から覚めても、しばらくは気持ち悪さが抜けませんでした。そして夢で見たことは、自分自身が過去に体験したことであるように思えました。
私は子どもの気持ちを全く考えず、大人の目線で適当な返事をしたことを反省しました。

またある時は、子どもが屋外で泥遊びをするのを見て「汚いから、やめなさい」と、注意したことがありました。
私は口に出してしまった後で「あれ?」という違和感を覚えました。その理由は、自分の幼い頃の記憶が頭をよぎったからです。私が幼少の頃は、泥遊びどころか近所の川や海に入って服を汚し、母親を困らせるのが日常茶飯事でした。それなのに、自分の子どもの行為に対しては「汚い」という言葉を口にしていました。
本当は泥遊びが「汚い」のではありませんでした。片づけや、手洗い、汚れた服の着替えなどの後始末を、自分がするのが面倒に思えたのです。
子どもにとって自分の目の前で光輝いているものこそが、かけがえのない美しさだというのに、私は長くそれを忘れていました。
私は目が覚めたように、子どもの目線で考えることの大切さに気がつきました。そして、それを忘れないように、いつも子どもの寝顔を見て「どんな夢を見るだろう」と想像することにしました。

幼児期の子どもは、毎日が刺激に満ちており、自分が感じたことや思ったことをすぐにでも誰かに伝えたい気持ちが旺盛です。
両親は子どもにとって最も身近な存在として、それを受け入れてやらねばなりません。
子どもが一生懸命に話すのに、親が無関心な態度をとると、子どもはがっかりして意欲を枯らします。
そのような事が何度も続くと、親との会話をあきらめてしまいます。そして、いつしか自分の思いや考えを外に出さなくなるでしょう。

【楽育】は、子どもの話に耳を傾け、子どもの目線で物事を考えることを習慣にします。
それは、子どもの気持ちを尊重することでもあります。
私は娘と一緒にいる時には、できるだけ同じことをするように心がけています。
たとえば、一緒に絵を描く、工作をする、本を読む、何かについて考えるなどです。
最初は大人がするほどではないと思えることでも、子ども一緒にやってみると私の方が夢中になることがあります。

親が子どもの心を取り戻すと、子どもと一緒に喜び、悲しみ、感激し、親子で共感することの素晴らしさを得られます。
そして、子どもと一緒でなければ一生思い出すことは無かったような、懐かしい感覚が蘇ることがあります。
それは眠れる森で長い夢から覚めたような
美しい記憶なのかもしれません。



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