10歳までの楽育〜第1章の3

ナチュラルガーデンと、放任の庭は違う。
〜「子どもが自立できるように導く」

ガーデニング愛好家の間では「ナチュラルガーデン」が注目されています。
「ナチュラルガーデン」は、庭を型にはめて作り込みません。
そよ風を肌で感じるように、心地よく自然を実感できる庭を作ります。そこは植物が持つ、みずみずしい生命感に溢れています。
「自然」がテーマであれば、管理をしなくてよいと考える人もいます。
しかし、人が庭の手入れを怠ると、たちまち雑草が生えてきます。
雑草の繁殖は旺盛で、人の手で植栽した植物の勢いを上回ります。
すると、いつしか荒れ果てた放任の庭となります。
人が手をかけずにおいて「ナチュラルガーデン」は実現しません。

「子どもを自然に育てたい」と望む人がいます。
そこには「伸び伸びと育って欲しい」という願いが込められています。
しかし、親が「自然に」を意識するあまり、子どもの行動を放任していることがあります。放任して育てられた子どもは、自分の好きにすることが自由であると勘違いをします。そして、社会的なルールやマナーを守ることができない人に育ちます。

かつては「子どもは社会の宝」として、地域で育児を行う共助の精神がありました。
私自身も幼い頃は、よく地域の大人たちに叱られていました。
隣家の庭を勝手に横切ると、「こら!」と怖い顔のおじさんが出て来て、人さまのものと自分のものは違うことを説教してくれました。
その頃は怖くて泣いていましたが、今ではなつかしく思い出すことがあります。
子どもを叱るのに、愛情と気力が必要なことを私が知ったのは、ずっと後のことでした。

当時は大人の間で、子どもがしても「よい事」と「悪い事」に共通の価値観やお互いの信頼関係があったように思います。私が悪いことをしたと知った両親や祖母は、それぞれの立場から私の行動を正そうとしてくれました。
かつて大人たちの考え方には、一貫性がありました。
しかし、現代は違います。大人の間で共通の倫理観が失われています。

たとえば、私の知人が道にゴミを捨てる子どもを注意したときのことです。その子の親から思わぬ反感を買ってしまいました。
「うちの子がゴミを捨てたのは悪いけど、なぜ、あなたにそれを言われなければならないのですか?あなたには何の関係もないでしょう?」。
この人にとって、自分の子どもが他人に注意されることは、受け入れがたい事実でした。
人が注意してくれたのは、子どものためであるという感謝の気持ちよりも、自分のプライドを傷つけられた感情の方が強いのです。
この時に横で大人のやりとりを聞いていた子どもは、何を思ったでしょうか?
母親のしたことは、子どものためになったでしょうか?
周囲の人は次第に「あの親子には関わらない方がよい」と気づくでしょう。
このような人がいると、地域の中で子どもを見守ることを遠慮する人が増えます。
なぜなら、親の顔が見えない子どもと、どのように関わればよいのか分からないのです。

わが家では、子どもをよく散歩に連れ出します。近所を歩いていると、よく庭の手入れをしているお年寄りに出会います。そこで私は庭の花や緑の話題を楽しみます。
「水仙がきれいに咲きましたね」と声をかけるだけで、話はいくらでも膨らみます。
近所に住む人に私たち親子の顔を覚えてもらい、気軽に声をかけてもらえる関係を築くことを私は大切に考えています。
その理由は、やがて子どもたちが、親の目の届かない場所で過ごすようになることにあります。子どもたちが危険や事をしたり、社会のマナーに反するような行動をした時に、遠慮なく声をかけてもらえるように。そして、地域の人々が親の目や耳に代わり、子どもを見守ってくれるように挨拶をしているのです。

【楽育】では、子どもの健全な成育を阻む「悪い価値観」を、雑草に例えています。
雑草の生えない庭はありません。
知らぬ間に雑草が生えるように、普段はよい子の子どもの心にも雑草の種がまかれます。「友だちがしているから」「誰も見ていないから」「これくらいなら大丈夫」など、親の目の届かない場所では、様々な誘惑が子どもたちを待っています。

庭の雑草を放っておくと、観賞用の花や緑はその勢いに負けて覆い尽くされます。しかし、人がこまめに雑草を抜いてやると、花や緑に十分な日光と土の栄養が行き渡り、成長を助けます。そして、大きくなれば地面を覆いつくして日陰を作り、新たな雑草の発芽を抑えます。
やがて庭は、あまり人の手をかけなくても、自然で美しい場所になります。

育児においても、幼い頃にしっかりと子どもに手をかけることが大切です。
そうすることで、自分で判断して適切な行動ができる子に成長するのです。

親が子どものために何ができるのかを考え、理想の方向へ導くことは、
自らの価値観を知る事でもあります。
親の価値観が正しければ、子どもは良い方向へ導かれ、
間違っていれば、子どもは悪い方向へ導かれます。

ある秋に茶人、千利休が庭の落ち葉を掃除していました。
そして、掃き終えると、数枚の落ち葉をきれいな庭に蒔きました。
それを見た人が不思議に思って尋ねると、利休はこのように答えたといいます。
《秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい》



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